鞆の美術館
楢村幸男、私設美術館
福山市鞆の浦に「楢村幸男美術館」が開館(2005年9月4日)。同市在住の洋画家・楢村さんがアトリエとして借りる古民家を改装、整備。楢村さんがスペインで購入したゴヤの連作銅版画「闘牛技」40点を展示。・開館日時:日曜10:30〜17:00・入館無料
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| 写真中央の石塔が常夜灯、右が鞆の浦@カフェ、その右にある白い蔵が 坂本龍馬のいろは丸展示館、後ろの山の中腹にあるのが空海が開基の 医王寺、いろは丸展示館の後ろに見える赤屋根の建物が美術館 |
楢村幸男アトリエ兼私設美術館 | 西洋画家、楢村幸男さん |

作品

作品

作品

アトリエ兼美術館の裏側、なかなかの風格あり。壁の傷みが激しそう!
取材に来た朝日新聞の記者いわく、「日本家屋の母屋と離れの洋館。井戸などもあり、宮崎駿監督の映画“となりのトトロ”の舞台のような雰囲気だ」との事。 朝日新聞の記事
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| このあたりの土は良質の陶土との事 |
美術館より歩いて3,4分の場所に平賀源内生祠(せいし=いきほこら、生きたままの人を祀る)あり。ちなみに医王寺からは一分以内。これも隠れた鞆の浦名物。
平賀源内…江戸時代の高松藩出身で本草学者、蘭学者(医者)、作家、発明家、画家(蘭画家)。
日本史上でも数少ない天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など西洋の文化、技術を紹介した他、
文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼(源内焼)などの焼き物を作成したり、多彩な分野で目覚ましい活躍をした。
日本初のコピーライター…「夏バテ防止の為“土用の丑の日に鰻を食べる”」のフレーズは、源内が考案した広告コピー。夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて創作されたもの。また、1769年
にはCMソングとされる、歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、1775年 には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけて、それぞれ報酬を受けており、これらを以て日本におけるコピーライターのはしりとも評される。
鞆とのゆかり…諸国遍歴のおり、1753年(26歳)に鞆の浦へ立ち寄り、良質の陶土を発見した。そこで地主である溝川家に陶器製造を勧め、製造法(源内焼)を指導しました。そして、土の神・かまどの神・源内大明神を三宝荒神として祀るよう言い残して去ったという。
GALLERY さらすわてぃ
手入れの行き届いた鞆の町家に本格ギャラリーがオープンしたのは2007年1月中旬。それから一年後の2008年2月、鞆の町並が一望出来る医王寺(空海が開山)の参道沿いに古い屋敷を改造し、移転オープン。店長は福岡で18年のギャラリー経験をもつ新田さん。長年のキャリアに加え、アートへの造詣の深さと幅広い作家達との交流から、日本の現代美術を代表する著名な造形作家の作品などが展示されている。自然素材を基調に衣食住に関わる、生活を豊かにする作品の数々、店内は作品と対話するような心地よい空気が流れている。
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| 鞆には珍しい清楚で趣のある雰囲気、煙突がGOOD | 作品(作家のパワーで元気を充電) |
感性に磨きをかけるギャラリー日和、鞆で出逢うアートな時間。「さらすわてぃ」とは、サンスクリット語で芸術の神様を指す、弁財天。「GALLERY さらすわてぃ」では喫茶スペースも設けられているので、作品展鑑賞後は喫茶でのんびり過ごしてみてはいかが。
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| 鞆らしい小路 | 座敷 | 窓から見える医王寺(雨トイのすぐ下に屋根だけ写っています) |
写真左の小路は、石畳(医王寺参道)から路地を少し入り溝を渡った地点。石畳からの入り口には「茶房セレーノへの入り口」という看板が出ています。この地点から少し下って右に回れば茶房セレーノ、時間にして数秒。この溝を20秒ほど遡上すれば、楢村幸男美術館に到着。溝を渡って参道(石畳)を横切れば「さらすわてぃ」に到着します。写真地点から「さらすわてぃ」までは歩いて一分程度。
ギャラリー鞆の浦青雲庵
土日のみ営業という版画ギャラリー。
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このギャラリーに関しては、書きかけです。 情報が入り次第、逐次掲載していきます。 |
| 走島への渡船場すぐそば | 宇野千代が生き返らせた、という薄墨桜の版画 | 以上 |
ギャラリー代表は「福山市倫理法人会」の事務長をされているとの事。
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| 碑文「疑な うし保のはなも 浦の春」 | 円福寺境内にある芭蕉の句碑 |
鞆の浦の大可島城跡に建つ、円福寺境内に芭蕉の句碑が飾られています。碑文、「疑うな
うし保のはなも 浦の春」。訳、「くだけちる波(潮)の花をみると、この浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」。
1777年に建てた句碑を、1827年秋に再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、鼎左(ていさ)の筆です。この句の前文に、「二見の図を拝みて」とあり、1689年(45歳)に伊勢の絵を見てよんだ画賛です。
松尾芭蕉…現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
忍者説…芭蕉が伊賀上野の生まれであるため、盛んに論じられてきた。古くから俳諧師は旅をして暮らしたことから、情報収集をともなったと言われている。
一般にテレビや映画からの印象で、忍者といえば「赤影」や「あずみ」のような動的なイメージがあると思うが、当時の忍者の職務は大別して二種類あり、「赤影」や「あずみ」のような職務と、今でいうスパイ的な職務があったという事だ。芭蕉は後者の職務、すなわち各地を回り、スパイ的な情報収集をしていたのではないか、という事だ。
中川美術館
鞆の浦にある鞆中学校すぐ下のスカイラインから、案内標識に従って車で山を登っていくこと約10分、福山駅方面からだとグリーンラインを南下して約25分、鞆の浦を望む山の中に中川美術館あり。キャッチコピーは“隠れ家美術館”との事。収蔵品は館長自身が収集した「中川コレクション」によるもので、中国美術全般にわたります。世界的にも評価が高いのだとか。
中川美術館公式サイト
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| 中川美術館入り口(左が陶磁器展示館、右上が本館) | 第1展示室(監視カメラとパトライトがものものしい) |
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| 天中龍園(第2展示室奥) | 天安門広場(10分の1サイズ) |
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| 大渋滞の県道22号、鞆福山線 | 小泉さんに中国茶をもてなす中川館長夫妻 | 天安門広場前にて |
| 記者会見で首相は記者の質問に答え「日中関係は冷えているというが、そうではない。現に文化を通じ中川美術館の ように草の根の運動が民間で行われている。とても心強く感じている」と記者に語る。衆議院解散2日前のことであった。 | ||
福山、小泉純一郎首相の美術館訪問で交通規制(2005/08/07 中国新聞)
広島市中区での平和記念式典に参列した小泉純一郎首相は6日午前、福山市熊野町の中川美術館(中川健造館長)を訪問した。同市西部の市道は、首相車を通す交通規制で午前10時〜正午にかけて渋滞した。同美術館によると、小泉首相が作品鑑賞を希望し、午前10時40分頃から約1時間滞在。県警は、警護徹底の目的で小泉首相を乗せた乗用車を無停止で走らせるため、国道2号などの各交差点で午前10時と同11時半頃から約30分間ずつ進入を制限した。片側車線が通行止めとなった草戸町、芦田川沿いの市道では一時、車の長い列ができた。
中川美術館の評判
青く静かな海面に点々と浮かぶ緑の島々。凪いだ海に、まるでハサミを入れるように小さな波をたてながら滑っていく漁船…瀬戸内の景色だ。中でも名勝のひとつとされている鞆の浦に臨む高台に中川美術館はある。「日本一素敵な美術館」と、来館者は口々に言う。高台の小山の谷間に作られた中川美術館は、展示館が2棟あり、庭に天安門(10分の1)があり美しい。そして、実はこの「素敵な美術館」がすごいのである。故宮に伝わる名品や中国国宝級の一品から中国現代絵画に至るまで、多数収蔵している。
一歩館内に入ってみると、そこには中国美術の名品が整然と並ぶ。故宮で使用されていた卓、屏風などの調度品、漢の時代から近代に至るまでの陶磁器類、宋の皇帝の愛用の硯、そして中国絵画の数々。一つひとつ挙げていけば、まさに枚挙にいとまがない。中川美術館開館10周年記念に、中国・北京の天安門を模し、10分の1に縮小して造った鋼鉄製の「天安之門」。その内容は世界有数で、とりわけ中国美術に関しては「世界一」と評されている。アメリカの美術情報誌「アートニューズ」で、中川館長が「世界のトップコレクター200人」に選ばれたほどだ。
この中川美術館には色んな有名人が訪れる。風光明媚な瀬戸内で、中国美術の最高峰にふれてみてはいかがだろうか。
◆美術館データ◆ 【住所】広島県福山市熊野町鴬の里 【開館時間】午前10:00〜午後4:00
【休館日】毎週火・水曜日(ただし8月・12月・1月・2月は休館) 【入館料】高校生以上900円、小・中学生300円
中川美術館マップ
最後に、何故、鞆の浦に舟唄の歌碑があるのか、今でもわからん? 私にとっては謎の鞆の浦名物か?????
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| ↑「安国寺下」バス停のほとり |
「舟唄」秘話…美空ひばりをイメージして書いた教材 音楽評論家、藤田正「音楽いろいろ、ちょいかじり!」より
| 八代亜紀「舟唄」(1979年)、動画↑クリック |
ヒット曲は、ひょんなところから生まれます。八代亜紀の「舟唄」(1979年)もその一つ。なにしろこの歌詞は、阿久悠がスポーツ紙に連載していた歌詞作りの講座に、私ならこう書きますという実例教材だったからです。この歌詞が新聞記者の手を経て一人歩きし、最後に浜圭介(「石狩挽歌」の作曲家)の所にやってきて、ついに大ヒット曲になった。ご存じのように「舟唄」に続いて八代亜紀は、同じ作家チームによる「雨の慕情」(80年)を出し、スターの地位を磐石なものとするのです。
この「舟唄」の歌詞ですが、もともとは「阿久悠の実践的歌詞講座」(スポーツニッポン)に載ったものでした(74年〜76年)。連載の最終編「美空ひばり編」に、オリジナルの「舟唄」が登場します。「舟唄」は、美空ひばりさんをイメージして書いた歌詞だったのです。 実は、美空ひばりと阿久悠は、同じ昭和12年の生まれです。彼にとって美空ひばりという女性は格別中の格別であり、「天才少女歌手といった生やさしい存在ではない、と思っている。ファンタジーである。敗戦の焦土が誕生させた突然変異の生命体で、しかも、人を救う使命を帯びていた」(『愛すべき名歌』から)
このような巨大な存在でした。そんな美空ひばりをアタマに思い浮かべて書いたのが、あ酒はぬるめの燗がいい〜と始まる、「舟唄」だったのです。ちなみに阿久悠さんは、そんな美空ひばりさんへいくつか作品は提供したことはあっても、「ついに、真っ正面から(美空ひばりに)対してヒット曲を作らなかったことを後悔した」と書いています(出展は同上)。これは、平成元年、びばりさんが亡くなったあとに書かれた文章です。
でも、八代亜紀のイメージとあまりにぴったりなせいでしょうか、「舟唄」が、ひばりをイメージして書かれたとは、今となってはちょっと信じがたいことではあります。