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源平の合戦in鞆の浦&能登原


備後国、鞆の浦に平家の落人伝説あり

沼隈半島
地図下部にある、矢の島の対岸地区が能登原(太字) 鞆の浦からは山を越えた西側


 能登原の沖に丸い島が浮かんでいる。この島は「矢の島」と呼ばれている。周囲730mの小さな無人島。今から八百年ほど昔、1185年の「屋島の合戦」で四国の屋島を追われた平家の武将、能登守教経(のりつね)らの一団は、燧灘(ひうちなだ)を渡り陣を鞆の浦に構えたが、さらに追われて能登原へ逃れ、ここに陣を構えた。

 一方、源氏は軍を二手に分け一つは鞆の浦に、もう一つは田島内浦に陣を張った(那須与一の一隊)。両軍は大かがり火を焚きにらみ合いを続けた。

 ある夜のこと、平氏の見張が「田島から源氏が白旗を立てて押し寄せてくる」と教経に伝えた。教経は、松に掛けていた弓を取って白旗めがけて矢を射たが、いっこうに手応えがない。暗闇の中をよくよく見ると、白旗と思っていたのは、実はかがり火に驚いて飛び立った白鷺の一群であった。

 教経は「富士川の二の舞であった」と笑い、一団はぐっすり眠ってしまった。その夜のこと、鞆に陣した源氏軍は能登原を攻め込み、田島からの源氏軍との挟み撃ちに合い、平家軍は総くずれとなった。ある者は腹を切り、ある者は山道を辿り、ある者は船で西海へと逃れたという。

 この合戦を「能登原合戦」と呼ぶ。

 教経が弓を掛けていた松は、その後地をはうような形の巨木に成長し、「弓掛松」と呼ばれた。教経の射掛けた矢の一本が田島の小島に刺さり、やがて根をおろして竹が生い茂った。この島を「矢の島」と呼ぶようになった。

 江戸時代の「西備名区」に能登原合戦として記されています。昔から白鷺が群生し、矢に用いる竹が繁殖する島と知られ、福山藩へ度々矢竹を送っていました。田島の内浦には那須与一宗隆の陣跡を伝える那須堂があります。大浦の善正寺には那須与一の陣中守本尊が秘仏として安置されています。

矢の島 能登原古戦場跡、西方面 能登原古戦場跡、南東方面
手前が矢の島、後ろが田島 能登原古戦場跡、西方面 同古戦場跡、南東方面
弓掛松 阿伏兎観音、背後に能登原
弓掛松 阿伏兎観音、背後に能登原

平家蟹(かに)伝説
 横倉(平家谷)の通盛神社の旧暦8月13日に行う祭礼には昔、海戦で命を落とした平家の魂が宿る「平家蟹」が、能登原の海岸からはるばるこの山をよじ登って参拝に来たとの言い伝えがある。

 上の写真、能登原古戦場跡・西方面をご覧下さい。ある霊能師に霊視していただいた所、海側から山側にかけて兵士たちの霊魂が歩いている姿が見えるそうです。平家の兵士たちの魂が、平家谷の通盛神社まで行軍している姿を、カニという姿を通して、現世の私たちにメッセージを伝えているのかもしれませんね。



備後国沼隈(ぬまくま)、平家の谷伝説

沼隈と平氏との関わり
 沼隈半島対岸の田島(内海町)との間に岩礁を挟んだ狭い海峡を控え、東の鞆の浦と西の尾道の中間にあたる敷名(内海大橋の下あたり)は、古くからの交通の要所で平氏の厳島信仰にともない、その寄港地となってから世に知られるようになった。「平家物語」の諸本には、治承四年(1180)三月退位後はじめて厳島に詣でた高倉上皇が、29日夜半厳島を出帆して翌日敷名の泊まりに着き、船がかりしたまま、海岸の景色を賞したことが見える。ここには応保年間(1161〜63)、後白河上皇が御幸された際に造られた御所があり、平清盛がこの御所に高倉上皇御幸のため設営させたといわれる。

 このほか、、中山南の横倉は屋島の戦いで敗れ、壇ノ浦におもむく平氏の一族が、鞆から能登原に陣を移して源氏と一戦を交えたのち、隠れ住んだという伝承など平氏との関わりを想起させるものが数多く残っている。

通盛神社 能登原八幡神社のお弓神事
通盛神社 能登原八幡神社のお弓神事

中山南と能登原
 八日谷や横倉地区は、俗称“平家谷”と呼ばれている(上地図の赤丸部)。東山間部の谷間にあって、昔から数多くの平家伝説を残している。その昔、屋島の合戦後、平家の武将主従が隠れ住んだ地で、鎧の峠、乗り越え、刀岩、殿迫、殿方の前、喜勢、馬通し、弓場、的場など関連のある地名が数多くある。また白色を忌み、この谷には白鳥も舞い降りず、綿を作付けした僧侶の一家は伝染病にかかり綿も実らなかったとも伝えられ、衣服も他の色に染められて着ていたようだ。

 横倉には、建久三年(1192)創建の通盛神社があり、平三位越前守平通盛をまつり、後神体に通盛公自作と称する通盛・と妻小宰相の局の木座像を奉っている。通盛神社は地元では平家の宮とか、平家さんと呼ばれて、男女仲を好くする神社として親しまれている。この宮の祭には、常石や千年の海浜より平家蟹が参拝したとの伝えもある。昭和60年春、地元住民によって八百年祭が盛大に行われた。また約八百年の歴史をもつといわれる「はねおどり」が伝承され、勇壮な郷土芸能として県無形民俗文化財に指定されている。

 能登原の地名の由来は平氏能登守教経にちなむという。中山南の平家伝説と同じように能登原の平家伝説もある。能登守平教経が弓を掛けたという樹齢千年にも及ぶ黒松の根株や、能登守に由来する行事などが継承されている。毎年一月三日の能登原八幡神社で行われるお弓神事もその一つで、裃・袴姿の二人の射手が、十二間離れた標的を狙い交互に八回射って新しい年の平穏を祈念する。能登原とんどの行事も有名で、弓矢の形で美しく飾られた八メートルを越える大とんどが、各地区から一基ずつ出され、一月十四日前の日曜日、組内を練り歩いた後、一ケ所に合流し、寒風に揺れながら威勢をつける。

平家谷の花しょうぶ園 平家谷の花しょうぶ園

平家谷の花しょうぶ園
平家谷の花しょうぶ園
文治元年(1185)、屋島の合戦に敗れた平家一族は、能登原に陣を構えて源氏との合戦を行った様子が、江戸時代の「西備名区」に能登原合戦として記されています。この能登原合戦にも敗れた平家一族は、壇の浦を目指して落ちのびて行きますが、山を越えた中山南横倉は、平家谷と呼ばれ、清盛のおいにあたる平道通主従一行が隠れ住んだと伝えられています。その時、大規模な平家の落ち武者狩りがありました。現在では花しょうぶやつばきの咲く、花しょうぶ園として美しい場所になっています。



鞆の浦と平家

鞆の平地区
 鞆の浦の淀姫神社(神功皇后の妹の淀姫を祀っているとの伝承)より西側に平(ひら)地区がある。ここは能登原の合戦に敗れた平家の残党が落ち伸びてきたという伝承がある。地名の平とは平家が由来との伝承もある。1932年に沼隈郡役所によって編集された沼隈郡誌には次のような口碑が紹介されている。「平と原は慶長(1596〜1615年)頃両村合して一村となり後地(うしろぢ)村と称し、鞆と風俗人情を異にせり。伝説にゆう。元暦(1184〜1185年)の頃、平家の残卒留まりし所を平といい、源氏の廃兵残されたところを原という」、広島県沼隈郡誌より。

鞆の小松寺
 鞆の小松寺は平重盛の草創と伝え、平家の瀬戸内海進出と鞆の浦の関係がうかがえる。「(鞆祇園社の)門前に小松寺という真言の寺あり、寺内に内府平重盛公の石碑あり、同じ公の御位牌又記録の巻物等あり、百銭を以て開帳し、拝見を許す。庭には重盛公手自植置給いしという松あり、極めて老松にて、高さは僅か三間ばかりにして枝どもは甚だながく、めぐりに延□、尽垂さがりて、末は地を摩り」、吉田東伍「大日本地名辞書」より。

鞆の奴可入道西寂
 養和元年(1181年)、平家方の備後の住人、奴可(ぬか)入道西寂(にゅうどうせいじゃく)が、鞆の浦から伊予に兵力三千にて出兵。平家方から寝返った源氏方の河野通清を討ち、鞆の浦に帰って遊女と戯れているところを通清の息子である河野通信に殺されたという、「平家物語」より。

鞆の鞆六郎
 また元暦二年(1185年)、屋島の合戦では平家方に六十人力の「鞆六郎」なる者がいたが、2月20日、源平双方一進一退の小競り合いの中で戦死。また、この日は源氏の美尾屋十郎と平家の悪七兵衛の「錣(しころ)引き」のあった日で、那須与一が扇の的を射た日でもあった、「盛衰期」より。

鞆の斐忠次郎
 同じ頃、敷名の海関から口無の海関あたりを守っていた西海番船十頭の長であった斐(このみ)忠次郎が、「磯間の三将」こと、平重盛、平教経、平知盛に鞆の浦で海戦の術を教え、兵船を整えたという伝承や記述あり、「長門本平家物語」より。

鞆の女郎部屋
 鞆の浦は女郎部屋発祥の地とされています。平家の女官の中で最も身分の高いものが上臈(じょうろう)と呼ばれたのですが、源氏の追撃に対して西へ落ち延びてゆく平家は、鞆の浦で女官たちを捨てて行くのです。女達だけで生きてゆく手段のない女官たちは身体を売って生計を立てたそうです。このことから女郎部屋という言葉が生まれました(上臈“じょうろう”→女郎“じょろう”へ変化)。つまり、鞆の浦が今のソープランド発祥の地だという事です。 鞆の浦の旧遊郭地区

鞆の仙酔島と安芸の宮島
 鞆の浦の沖合いに仙酔島という無人島があります。ここに平家は源氏を迎え撃つ一大砦を築こうとしました。そして厳島神社(宮島)と同様に海に大鳥居を築こうとしたのですが、海にはふかが多く、工事は難航し、結局砦の構想は断念されたようです。だから仙酔島の山は、厳島と同様に弥山(みせん)と呼ばれています。

グリーンライン平地区から見た仙酔島
グリーンライン平地区から見た仙酔島


鞆と全国平家会
 平成18年度(第2回)全国平家会役員会は仙酔島で開催されました。21世紀になっても平家の末裔達にとって鞆の浦は平家ゆかりの地には変わりないみたいです。 平家会役員会の様子


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