朝鮮通信使in鞆の浦
朝鮮通信使とは、足利・豊臣・徳川の武家政権に対して朝鮮国王が送った外交使節団のことで、「朝鮮通信使」「信使」「朝鮮来聘使」「来聘使」などとも呼ばれた。実際には江戸時代、1607年より12回にわたって来日した使節団を「朝鮮通信使」という。
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| 朝鮮人来朝図(羽川藤永筆) 神戸市立博物館蔵 | 「朝鮮通信使船団図屏風」狩野探信画(個人蔵) |
上左図は江戸市中を行進する朝鮮通信使一行。富士山を遠景に幔幕を張り、金屏風で飾り立てた江戸駿河町の越後屋呉服店前には、桟敷席が設けられ行列を見物しようと集まった人々がつめかけ、大賑わいをみせている。上右図は朝鮮通信使船団の様子。上の挿し絵は二枚とも鞆の浦歴史民俗資料館蔵書「朝鮮通信使と福山藩港・鞆の津」より
朝鮮通信使400周年記念行列
江戸時代の唯一の外交使節であった朝鮮通信使が始まって2007年で400周年にあたります。鞆の浦は通信使が立ち寄ったゆかりの地でもあります。それにちなんで、2007年5月20日(日)「福山ばら祭2007」で朝鮮通信使を再現。朝鮮通信使記念行列を民団関係者や福山市民と同市友好都市の韓国浦項(ポハン)市関係者ら、約100人が当時の使節団に扮してた衣装をまとって賑やかに練り歩きました。正使役の徐栄振(ソヨンジン)駐広島韓国総領事らの乗った通信使船の花車、朝鮮(李朝)時代の衣装やチマ・チョゴリ姿の行列に、沿道を埋めた市民から大きな拍手がわきました。今年はゆかりの地で多彩な記念行事が行われています。
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朝日新聞に1997年に鞆の浦で行われた朝鮮通信使の行列を再現したイベントの記事が出ています。 朝日新聞の記事
日本最高の名勝地、福禅寺(備後福山藩、鞆の浦)
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「日東第一形勝」 福禅寺本堂内部 ![]() |
| 手前が「日東第一形勝」と書いた石碑、奥に福禅寺本堂 | 右に伊東住持、左はテレビレポーター |
朝鮮通信使秘話
1748年、十番目の通信使らはここで小さな「反乱」を起こした。「福禅寺を宿所にできなければ船から降りない」としたのだ。通信使は対馬を経て江戸に行く途中、いちばん景色が良い所に泊まって国賓級のもてなしを受けるのが慣例だった。しかし彼らが鞆の浦港に到着したとき、福禅寺は地域の役人たちの宿所として使われていた。これに頭に来た通信使一行はその晩、船でひと晩を過ごし翌日早く江戸に発った。彼らは江戸訪問を終えて朝鮮に帰る途中、福禅寺に泊まることができた。当時、正使だった洪啓禧(ホン・ゲヒ)はこの絶景に酔って「波が向かい合う樓閣」という意味で「対潮樓」と名づけた。
現在、国家文化財に指定されている福禅寺は1616年から通信使幹部の宿所として利用された。伊東住持(85)は「ここは瀬戸内海に浮かぶ島々を鑑賞することができる上、遠くは四国まで眺めることができ、最高の名勝地に挙げられる」と話す。1711年、この寺に泊まった通信使幹部たちは「江戸より秀逸な景観」と感嘆し「日本最高の景色(日東第一形勝)」という文を残した。
この地を歩いていると、まるで江戸時代に戻ったような気がする。狭い路地を通って海に出れば通信使らが船をつけていたという港や石段が昔の姿をそのまま残している。郷土史学者である池田一彦さんは「鞆の浦住民たちの間には第二次世界大戦と明治時代にも昔を守ったという自負心が強い。植民地時代朝鮮に対する民族的差別があったにもかかわらず1940年、福禅寺を「朝鮮通信使宿所」として広島県の史蹟に登録したほど」と話す。鞆の浦は今年の初め、日本の昔の都市保存財団が選定した「美しい日本の歴史的風景10選」に選ばれた。
こうした伝統を固守する地でも開発ブームにはまったく勝てなかった。ここの自治体は二十余年前から鞆の浦港を一部埋め立て、橋を掛ける事業を推進している(下図参照)。
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| 朝鮮通信使によって日本一の名勝と呼ばれた鞆の浦が景観破壊の危機にひんしています。元凶は鞆の浦出身で現福山市長・羽田皓氏が 強引に進める鞆の浦の港の埋め立て架橋を計画です。港を埋め立て道路を通し、残りの土地に観光客向けの駐車場を建設整備するというも のです。これによって、日本有数の景勝地である鞆の浦は、その付加価値を破壊される事になるでしょう。本当に悲しい事です。 なお、写真にある静岡の清見寺、かつては目前に海岸線(清見潟)が広がっており、素晴らしい景観を誇っていたそうです。が、経済発展と 利便性の為に清見潟を埋め立ててしまい、景観を破壊ししてしまったそうです。清見寺で犯した愚を鞆の浦で繰り返してはいけません。 日本が誇る大切な宝物を死守しなければいけません。 |
鞆の浦における朝鮮通信使・随行員達の宿所
朝鮮通信使一行は総勢400名から500名の大所帯の為、宿所も鞆の浦一円のお寺へ分散して宿泊する事となります。
最高官吏(正史、副使、従事)の宿泊所…福禅寺
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| 福禅寺本堂 | 福禅寺客殿・対潮楼から仙酔島・弁天島の眺め、「日東第一形勝」との評価 |
上官(製述官など)の宿泊所…淨泉寺、大観寺、円福寺
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| 淨泉寺本堂 | 大観寺本堂 | 海側から見た円福寺本堂 |
一般随行員の宿泊所…明円寺、阿弥陀寺、南禅坊、善行寺、正法寺、本願寺、顕政寺、妙蓮寺、静観寺、法宣寺
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| 明円寺、手前が山門、奥が本堂 | 阿弥陀寺本堂 | 南禅坊本堂 |
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| 善行寺本堂 | 正法寺本堂 | 本願寺本堂 |
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| 顕政寺本堂 | 妙蓮寺本堂 | 静観寺本堂 |
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| 法宣寺本堂 | 天蓋松(法宣寺境内) | 鞆の大仏(高さ約4m、阿弥陀寺) |
鞆の浦、お寺・史跡マップ
朝鮮通信使一行をもてなした料理
通信使の最高官吏3人には「3汁15品」
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| 再現された饗応料理の本膳(左)と最高官吏3人に出された「3汁15品」(右) | |
「通信使らは牛、イノシシ、鹿、鶏、キジ、カモ、たまご、鯛、あわび、タラ、ニシン、海老など肉と魚を好む。スイカ、柿、ミカンのような水気が多い果物、そして麺、ぎょうざ、羊羹、キャンディーも好む。鶴、鯉、すっぽんは、以前は好まなかったが、今は求める人もいる。酒はおおかた好き嫌いを言わない」――。
1748年、朝鮮通信使に遂行した対馬藩主が各地域に送った「朝鮮人の好きな食べ物」だ。接待を担当した地域藩主らは通信使らの食性を考慮して料理を支度したが、これが正使・副使・従事官など通信使最高官吏3人に提供された3汁15品だ。三種の汁物と15種のおかずにご飯とお酒が添えられる。下蒲刈(広島県呉市)は、この地域の料理専門家である永山久夫さんに依頼し、3汁15品を再現して2万千円で出している。
3汁15品は、ぱっと見たところ韓国の祭祀膳と似ていた。キジ肉の焼き物とご飯の上にかけて混ぜて食べたというゆずみそ(みそにゆずの汁を入れて混ぜたもの)は馴染みがない。しかし各種、さしみを含めて鯛の焼きものとあわびの煮物、タラの煮物、タラ鍋、イカ巻き、カモの焼き物、豆腐のお好み焼きまで大部分がよく慣れ親しんだ食べ物だった。
日本人責任者いわく「当時とまったく同じ材料と味付けをした」とし「その時と違う点があるとすれば、当時はお客さんに対する尊敬の表れとして一度使った食器は壊したが、今はまた使うこと」と説明した。
400年前の海の幸や山の幸の味はどうだったろうか。塩、醤油、砂糖、油など4種類の調味料のほかに何の調味料や香辛料もなかっただろうから、淡白にならざるを得なかった。食べ物がおおむね冷たいのも問題だった。「おかずはともかくどうして汁物までこんなにぬるいのか」という質問に、「朝鮮人は熱いものを嫌がって、ぬるい料理を好んだ」という昔の記録を見せてくれた。「韓国・中央日報」より
朝日新聞に朝鮮通信使をもてなした料理を描いた巻物の記事が出ています。 朝日新聞の記事