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鞆幕府


室町幕府第15代将軍・足利義昭は、織田信長により京を追放された後、毛利氏の庇護のもと鞆の浦にとどまり信長打倒の機会を窺った。この事から「鞆幕府」という呼び名もある。「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」より


第15代将軍・足利義昭
第15代将軍・足利義昭

足利義昭の足跡
 永禄十一年(1568年)10月、織田信長にかつがれた足利義昭は、室町幕府第15代の征夷大将軍に任じられた。が、あくまで傀儡(かいらい)を望む信長の意に反し、義昭が将軍として政治的活動を始めた為、二人の間には不和が生じる。

 天正元年(1573年)3月、義昭は二条城で信長と戦い、戦況が不利になると朝廷を通じて無条件降伏をした。ところが、信長が岐阜に帰ると義昭は朝倉・武田・石山本願寺などを味方にし、同年7月二条城を側近の三淵藤英らに守らせ、自らは宇治の槇島城に拠った。兵力は3,700とも6,000ともいわれる。しかし信長は4,5万もの軍勢で槇島城を取り囲んだ。総攻撃の直前になって義昭は二歳の幼児を人質として降伏した。

 天正四年(1576年)2月8日、信長に京都を追われた義昭は毛利氏に信長との開戦を求めて鞆の浦に逃れ、この地で幕府再興を志した。1582年頃まで鞆の浦に居住し、その後、津之郷(福山市津之郷町)へ移り、1588年、豊臣秀吉の許しを得て上洛するまで留まった。

 「鞆幕府」といわれるように、当初は毛利氏の援助もあり、遠国大名の使者や毛利領内の有力な国人衆たちが集い、小幕府的な活況を呈した。これらの来訪者を義昭にとりもったのは、毛利氏の外交僧で安国寺の住持となった恵瓊であった。

 しかし、次第に毛利氏から疎まれるようになって援助を出し渋っていたようです。義昭の随行者は主な家臣だけでも50人をこえていたそうで、義昭の近臣・畠山昭賢が出した吉川元春宛書状に「もはや我が身の上思うにまかせない次第となり、輝元殿にご配慮いただけるよう、ご助言のほど…」と、無心ともとれる手紙を残している。それでもなお、義昭は将軍としての誇りを捨てたわけではなかった。

 義昭は執念とも言える気迫で、第二次信長包囲網を構築する。

信長包囲網 「出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」…信長包囲網(のぶながほういもう)は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて、室町幕府将軍足利義昭とその後ろ盾である織田信長との対立に由来する義昭主導の反信長連合の俗称。

第一次包囲網…1570年、信長に擁立され軽んじられている事に不満を募らせ独自の外交を展開していた将軍足利義昭の呼びかけにより、義昭を盟主に織田家に反発する近畿地方の諸勢力が団結し、包囲網が結成された。包囲網軍は織田家と激しい争いを繰り広げた。
 1572年10月、遠江、三河への侵攻を行い織田・徳川との対立が明確になった甲信駿大名の武田信玄が信長打倒の軍を起こす。信玄は信長の盟友徳川家康を撃破し(三方ヶ原の戦い)、さらに西上した。しかし同年12月、浅井長政の援軍として近江において織田軍と対峙中の朝倉義景が、突然本国への撤退を始めた。この撤退によって信玄がもくろんでいた織田軍分散計画は破綻。武田軍の進軍速度は極端に鈍った。翌年4月、信玄は失意のうちに没した。
 最大の脅威であった信玄が死去したことを知った信長は一気に攻勢に出た。信玄なき今、もはや信長と立ち向かえるほどの余力が残された勢力はなく、なすすべもなく各個撃破されていった。こうして信玄の死から一年足らずで浅井・朝倉・三好といった勢力は信長に滅ぼされ、将軍足利義昭も京から追放された。

第二次包囲網…1576年、波多野秀治、山名祐豊といった従属勢力が信長から離反。さらに石山本願寺も再び挙兵。信長はわずかな手勢で本願寺勢を破るが、毛利水軍に敗れ撤退する。その後上杉謙信とも敵対関係に陥り、それを好機と見た松永久秀が反旗を翻した。その後、信長に属していた雑賀衆、荒木村重、別所長治もこれに呼応する。
 窮地に立たされた信長だが、1578年に包囲網の最大勢力上杉謙信が急死し、危機を免れ、1580年の石山本願寺明け渡しによって事実上崩壊した。


織田信長襲殺の黒幕は足利義昭である

織田信長 当時の外国人が描いたと伝えられる信長
織田信長 当時の外国人が描いた信長

「是非に及ばず」業火に潰えた信長の野望 (本能寺の変)

 天正十年(1582年)五月、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が安土城の織田信長に援軍を要請、信長は堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城に来ていた徳川家康の饗応役を命じられていた明智光秀にも出陣を命じた。光秀は五月十七日に坂本城、五月二十六日に亀山城に移り、翌二十七日愛宕山に参詣、連歌師・里村紹巴と愛宕百韻を催した。信長は五月二十九日に安土城を進発し、京都本能寺を宿所とした。六月一日、信長は博多の豪商島井宗室らを招き茶会を催した。

 六月一日夜半、亀山城を進発した光秀は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止、明智秀満、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けた。重臣には反対する意見も出たが、結局明智軍は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取った。桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知、先遣隊として天野源衛門を派遣し本能寺までの道程を偵察させ、自軍内や経路上の農民らから本能寺への密報者を防ぐため、不審者は斬り捨てとした。

 六月二日早暁、明智軍一万三千は京都の街に侵攻、本能寺を襲撃、信長は弓と槍で奮戦したが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死、信長も肘に槍傷を受けて退き、島井宗室や女達を退出させた後、殿舎に火をかけさせ、炎の中で自刃した。

本能寺跡 京都市中京区元本能寺南町


信長廟
陣没者名簿(森蘭丸他)
本能寺跡 信長廟 陣没者名簿(森蘭丸他)

足利義昭、黒幕説 (本能寺の変) 「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」より

明智光秀
明智光秀

 自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説。三重大学の藤田達生教授が中心となって主張されている。

 日ごとに権力を増す信長に驚異を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に「いか様の官にも任ぜられ」(どのような官位も望みのままに与える)と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。しかし信長は返答を天皇に直接話すとして、親書を届けた勅使を追い返してしまう。天皇を軽んじた信長の態度に朝廷はうろたえるが、それ以上に信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・明智光秀に信長暗殺を持ちかける。信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。

 三重大学教授・藤田達生はこの説を裏付ける証拠として、本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに上杉より身分の高い人物への協力を促していること。加えて本能寺の変直後、光秀が紀州雑賀衆・土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使っていることを挙げ、光秀の背後に足利義昭が存在したと主張している。

 信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などが根拠となるが、この説に対しては、義昭を庇護していた毛利氏が(定説によれば)本能寺の変を知らなかったことについて説明が付かないとの反駁がある。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずとの考えがこの反駁の根拠となる。

 この反駁との関係では、毛利氏が本能寺の変を知っていたかどうかについて異説があり、太閤記や佐久間軍記などでは、和議の時点ですでに毛利氏は本能寺の変の発生を知っていたとして描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。また、紀州の雑賀衆にすぎない土橋重治ですら、光秀に対して信長討伐の協力を申し出ていることから、毛利氏が本能寺の変を知っていたとしても不思議ではないとする考えもある。




鞆城
鞆幕府、将軍・足利義昭の居城
鞆城の石垣 鞆城大手口
鞆城の石垣 鞆城大手口


鞆城の石垣
鞆城の石垣

鞆城跡 福山市史跡 1976年(昭和51年)7月13日指定

 戦国時代、瀬戸内海の海の要所、鞆港に面して築かれた海城です。十六世紀初頭、備後を領有した尼子氏に対抗して、毛利元就が天文年間(1532〜1555年)に築城したと推定されています。
 あるいは、大内義隆が山名理興を攻めた神辺合戦(1543〜1549年)に関連して、大内義隆勢である小早川隆景が1545〜1547年にかけて鞆に本陣を置いて拠点としていた経緯から、小早川隆景の築城ともいわれています。
 また別の説では、1544年7月3日付の大内義隆が因島の村上新蔵人吉充にあてた「鞆浦内十八貫文の地を宛行う」の知行状から、村上氏が大可島城の対岸本土側で鞆港の上にある丘上に築城したともいわれています。いずれにしても、出雲の尼子氏に対抗して築城されました。

 元亀四年(1573年)、織田信長によって京都を追われた最後の将軍・足利義昭は、1576年に鞆城に入り城は拡充されました。毛利氏は直轄地として次々に鞆城代を置きました。

 慶長五年(1600年)、安芸・備後に入封した福島正則により、鞆城には重臣・大崎玄蕃を城代にして新しく三層の天守を築き、城郭の整備を行って瀬戸内の護りとしている。鞆港より三の丸、二の丸、本丸に追手門から上がる梯郭式で、東は福禅寺まで、北は搦手門へと下り沼名前神社の参道までの広大な縄張りです。

 元和六年(1615年)の一国一城令によって取り壊され天守櫓は三原城に移築された。しかし、鞆の浦は公式の海の駅である為、水野、阿部時代には町奉行が置かれました。また鞆町の支配だけでなく、幕府使臣をはじめ諸大名や朝鮮通信使などの往来に備えるため鞆在番衆を置き、それらを監視する鞆目付も派遣されていて、幕末まで物流経済の「備後の首府」として繁栄が続きました。

 現在、郭、帯郭、土橋、枯山水、石垣、堀等の遺跡が残っています。天正年間以前の石垣は自然石を積み上げた「野面積み」、天正年間以降のは、小石をはさみ表面を揃えた「打込みハギ」、江戸初期のは切石で表面を揃えた「切込みハギ」で、毛利・福島時代の石垣が散見されます。

 1992年4月、病院建築中に三の丸の石垣が発見されました。この石垣には刻印があり、本丸石垣の刻印と同一のものである事が確認されました。工事の為、発見場所より移動させた為、石垣のラインは現位置より南に23メートルで東西一直線に埋まっています。当時はこのラインが海岸でした。鞆城が軍船を係留できる海城であった事を証明できる貴重な遺構です。


鞆幕府「鞆公方(足利義昭)」の御所

 上述したように、1576年2月8日、織田信長に京都を追われた足利義昭は鞆の浦に逃れ、この地で幕府再興を志した。義昭が当初入ったのは小松寺であった。この寺はかつて再起をかけて京へ攻め上がった室町幕府初代将軍、足利尊氏が兵を休めた寺でもあった。義昭は間違いなく、この事を意識していたのであろう。 足利尊氏と小松寺の関係について、その1 その2

 義昭は小松寺に滞在した後、鞆とその周辺に複数の御所を持った。当時、「鞆公方」と呼ばれた義昭の御所は、現在の鞆城跡の一角にあった。城跡に残る「申明亭」と呼ばれる場所には枯山水の庭園があり、御所の庭だったといわれている。ちなみに「申明亭」は現在、鞆城下にある市営駐車場横の民家の敷地内にあります。また、御所のあった場所のごく近くに、鞆の浦を守る村上水軍の大可島城があった。当時の城主・村上亮康が、義昭一行の警護に当たったのであろう。

 鞆から約5キロ北には、義昭を援助をした地元勢力のひとつ、一乗山城主・渡辺氏の菩提寺であった常国寺(福山市熊野町)があり、ここも義昭の御所として提供された。現在も常国寺には、「先年、公方様が常国寺にいらっしゃった」と記された義昭の側近・真木島昭光の書状のほか、義昭が渡辺氏に与えたとされる胴肩衣などが残されている。

鞆幕府の陣容

 吉川経安の文書に「義昭将軍は織田上総介(信長)を退治するため、備後鞆の浦に御所を移され、毛利右馬頭防大江朝臣(輝元)を副将軍に任じられた」、からわかるように、いわゆる鞆幕府は打倒・織田信長を名目とし、鞆の浦を拠点として機能していた事がわかる。

名前 役職・備考
足利義昭 将軍
毛利輝元 副将軍、外様大名衆、毛利氏当主
吉川元春 近臣、外様大名衆、毛利氏重臣
小早川隆景 近臣、外様大名衆、毛利氏重臣
安国寺恵瓊 近臣、備後安国寺住持、毛利氏使僧
神田(三浦)元忠 外様大名衆、毛利氏重臣、津の郷御所提供
益田宗兼 外様大名衆、毛利氏重臣
三沢為虎 御供衆、毛利氏重臣
山内隆道 御供衆、毛利氏重臣
熊谷信直 毛利氏家臣
富永掃部頭 毛利氏家臣
村上亮康 毛利氏家臣、大可島城主
渡辺源八郎 毛利氏家臣
渡辺民部少輔 毛利氏家臣、常国寺御所提供
草刈重継 番衆、毛利氏家臣
末国元光 番衆、毛利氏家臣
飯川信堅 申次
伊勢左京亮  
伊勢上野介 御供衆、政所執事、伊勢氏一族
一色昭孝 近臣、御供衆
一色昭辰  
一色昭国  
一色昭秀 近臣、宗像神宮大宮司、宗像氏に派遣
一色藤長 御供衆
飯尾昭連 奉行衆
飯尾為忠 奉行衆
上野信孝 近臣
上野秀政 近臣、御供衆
海老名新太郎 番衆
大蔵院日珠 上杉・武田・北条氏に派遣
大館春忠  
大館藤安 番衆、上杉氏に派遣
狩野光茂  
北畠具親 伊勢国司・北畠具教の実弟
高五郎次郎 番衆
小林家孝 番衆、荒木村重の反乱を工作
城行長 奉行衆
瑞林寺  
曾我晴助 河野氏に派遣
武田信景 若狭守護・武田義統の実弟
武田刑部大輔 御供衆
内藤備前守 丹波守護代・内藤如安(ジョアン)
梅仙軒霊超 伊与国越智郡日吉郷海会寺領に所領を持つ
畠山昭賢 取次あり
細川輝経 取次あり
真木島昭光 近臣、番衆
陽光院  
松田藤弘 奉行衆
松田左衛門尉 上杉氏に派遣、清水宗治の与力として戦う
柳沢元政 厳島神社大宮、のち毛利氏家臣
大和淡路守 北条氏に派遣
蓮華坊  
六角義堯 外様大名衆、近江守護、六角義賢の子息
竹田法院定加 侍医
春阿弥 同朋衆(猿楽衆も滞在)
千若 小者(御厩方も滞在)



余談…私が子供の頃、この場所を城山と呼んで、ここでよく遊んでいました。本丸でタコあげをし、二の丸で野球をしていました。
本丸跡、鞆の浦歴史民俗資料館 本丸跡、公園(右奥に宮城道雄像) 本丸跡、石塁 二の丸跡、公園
本丸跡、鞆の浦歴史民俗資料館 本丸跡、公園(右奥に宮城道雄像) 本丸跡、石塁 二の丸跡、公園
搦手道跡、城下へと続く 城の防備の為の補助的な曲輪(二の丸下) 搦手門跡 城跡からの鞆港方面の風景
搦手道跡、城下へと続く 城の防備の為の補助的な曲輪(二の丸下) 搦手門跡 城跡からの鞆港方面の風景
二の丸の石垣(寺蔵院の石垣) 三の丸の石垣(病院敷地内より23m移動) 案内看板(鞆城は本丸・二の丸・三の丸と階郭式)
二の丸の石垣(寺蔵院の石垣) 三の丸の石垣(病院敷地内より23m移動) 案内看板((↑クリックで拡大)


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